芸能事務所、タイタン代表取締り役の太田光代さんは爆笑問題の太田光さんの奥さまであることは世間でも有名ですよね!
爆笑問題がまだ無名の頃から夫を支え、落ち目になってしまった時には太田光さんや相方の田中さんに代わってディレクターやプロデュサーを積極的に接待しながら「爆笑問題の漫才を見てやって下さい」と時には土下座をしながらでも熱心に活動をされていたようです。
それだけ強い信念を持っておられた妻の協力があったからこそ、夫の太田光さんもここまでの地位を確立されたのではないでしょうか?
今回はミステリアスな部分も多い太田光代さんの旧姓、兄弟、先祖はどんな人だったのかをまとめてみたいと思います。
太田光代の旧姓は?兄弟はいる?

太田光代さんの旧姓は松永光代(まつなが・みつよ)さんです。
夫の太田光さんと同じく太田光代さんも一人っ子です。
それでは彼女の幼少時代から順を追って見ていきたいと思います
太田光代さんはアパートで母親と叔父(母親の弟)との3人暮らしで、その叔父さんは演歌歌手、母親はシングルマザーで保険のセールスレディーをしながら光代さんを育てていました。
母親は光代さんが6歳の時に結婚し、義父は水道管工事の職人だったそうです。
太田光代さんは高校生時代には二つの喫茶店をかけもちでアルバイト、高2になると家を出てアパート暮らしを始めておられます。
この時、親子仲は悪く、援助も一切受けなかったのもあり生活は苦しくて銭湯代を浮かせるために台所の流しのシンクで身体を洗ったり、ある時は電気代が払えずに電気を止められてしまった事もあるみたいです。
これらの経緯を見る限りでは、太田光代さんは寂しい母子家庭で幼少期を過ごしておられたのではないかとも思います。
太田光代さんの表情がどことなく寂しそうにも見えるのはこの時の思い出が原因の一部となっているのでは?と思わずにはいられません。
太田光代の先祖が凄い!戦国武将がご先祖様に!
太田光代さんのご先祖様は実は戦国武将だったようです。
太田光代さん曰く、先祖は松永久秀(弾正)という武将だそうです。

松永久秀(弾正)は戦のためなら女性や子供も平気で殺した人物と資料にも残っています。
戦国時代、領地争いや家名を存続させるために各地で武将たちが心血を注いでいました!
下剋上という言葉が生まれた時代に名を残した名将はたくさんいたみたいですが、太田光代さんも名将の子孫であることには間違いなさそうです。
松永久秀(弾正)ってどんな人物?
松永久秀(まつなが・ひさひで)1508年~1577年
松永久秀は、戦国時代・安土桃山時代の武将で大和国の戦国大名です。
通称、松永弾正(まつなが・だんじょう)とも呼ばれていました。
この武将はもっとも残酷と言われた織田信長を2回も裏切ったにも関わらず、許された唯一の人物だとか…。
信長からしてみれば失うのがそれほど惜しい有能な人物だったのでしょうね。
松永久秀には松永久通(まつなが・ひさみち)(1543年~1577年)という名の長男がいました。

イラストではなかなかキリッとしたイケメン(^^♪
父・久秀と共に信貴山城の合戦で自害してしまった久通には、松永彦兵衛(一丸)いう名の子供がいました。
その子供はやがて博多で質屋を始めて大儲けをし豪商となったそうです。
のちに佐賀藩士になった彦兵衛でしたが、子孫の中には松永貞市(海軍中将)、松永市郎(海軍大尉)、さらに、iモード開発者の松永真理がいます。
まとめ
太田光代さんの旧姓、兄弟、先祖がどんな人だったのかをまとめてみました。
太田光代さんご自身が「私の苗字は松永です。戦国時代に子供も徹底的に殺した松永弾正(私の先祖)については聞いています」と話しておられることからも、先祖が凄い人だったということは事実のようです。
人を育てる才能、真実を見抜く力などはもちろん、彼女から放たれる力強いオーラがご先祖様の有名武将とどこか重なっているような気がして仕方ありません。
